批評、あるいはsunset。

間、あるいは太宰治『人間失格』



「自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い、など劇しい呼吸と共に胸の中で呟き、ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ちつくしていました。」

 主人公が最後の自殺を企てるきっかけとなる、妻の姦通を目撃する小説の山場だが、この部分を読むと、意外なほど感情がなく、冷静な視線だけに出会う。「まるで、地獄だ」という堀木の言葉の通りの情況で、主人公は恐怖を感じる。ここの恐怖は、人間あるいは世間に対するものに、他ならない。

「世間とは、いったい、何のことでしょうか。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。」

「世間とは個人じゃないか」。そう思い、消えたはずの恐怖が、この風景で一瞬に蘇る。
『人間失格』は要約すれば、世間と私の関係について書かれている。それは私が複数の人間から成り立っている世間に同化できるかであり、その試みが失敗したからこそ、「人間、失格」と自覚するのである。


「恥の多い生涯を送って来ました。」

第一の手記の冒頭は「恥」という単語から始める。この単語は小説のキーワードであるが、恥と言う感情は喜怒哀楽のような単純な感情ではない。そこには自他、私と世間の存在が前提となっているからである。

「メロスは激怒した」から始まる『走れメロス』は小説の中で喜怒哀楽を繰り返し、小説の最後で「勇者は、ひどく赤面した」と恥の感情を出現させる。ここでもメロスとセリヌンティウス、王の関係だけで完結していた世界に、娘が乱入してくるからである。『メロス』のような古典をベースした小説では喜怒哀楽が出てくる一方、自分のことを書いたかのような小説では喜怒哀楽の替わりに、恥が感情のほとんどをとなる。


世間との関係が絶たれ、「人間、失格」となった後には、恥の感情すらも消えてしまう。

「ただ、一さいは過ぎて行きます」

ここには人間あるいは世間の存在はない。あるのは自分と世間の間に合ったはずの空白だけである。「人間」は言葉の通り、「人の関係」を意味する。関係を絶たれた後の空白は、まさに余白でしかない。そこには感情すら存在しない。存在するのは時の流れを観察するような視線だけになる。冒頭で引用した文章の視線はまさに時を眺める視線に他ならない。
人間の「間」にある空白。太宰が書き続けてきたものはこれだったのかもしれない。
(2009/11/28)



 produce by 熊本昭