批評、あるいはsunset。
村上春樹『1973年のピンボール』試論
初めて『1973年のピンボール』を読んだ時凄い衝撃に出会った記憶がある。今その衝撃がどのようなものだったのか思い出すことができない。思い出せないことを考慮するなら、意外にも取るに足らない感情だったのかもしれない。その時期のメモ書きを読み返してみると、「物事には必ず入口と出口がなくてはならない」という本文の言葉が頻繁に引用されていた。確かに大学生の頃、この言葉を座右の銘にして、小説を読む規準としていた記憶が蘇った。その小説が「入口と出口」を備えているかどうか、それは大学生の私には魅惑的な基準だった。小説を読むこと、つまり「入口と出口」を通過することは、「ここではないどこか」へ行ける可能性を有していたからだった。
私事から論を始めたのは、この小説が多感な時期の私にとってかけがえのない小説であったということから始めたかったからだ。私にとって『ピンボール』を論じるということは、青春時代の私自身を論じることにもつながりうる、ということだ。それは村上氏が『風の歌を聴け』で見せた素振りに近いかもしれない。
第一の疑問は『ピンボール』の入口と出口とは何だったのか、と問い直してしまうことだ。小説としての話は僕の物語と鼠の物語が並列に並べられていて、僕の物語は双子の姉妹が現れて去っていくまでの物語、ピンボールに会いに行く物語で、入口と出口は明確にある。鼠の物語も女との出会いから別れるまでの物語、街を出るまでの物語を入口と出口としてなぞっている。まず検討したいのは僕の物語が自己完結しうる任意的な物語であることだ。
双子の姉妹は、双子の姉妹と付き合っていたからその時期のことを小説にしてみた、と言った感じの、特別な存在として書かれている。村上氏の小説に繰り返し出てくる双子のイメージと重ねて論じることも可能だが、ここでは逆にそのイメージから双子という存在を作為的なものと考え、仮にその特権を剥ぎ取り、一人の女性に置き換えてみたい。そうすればこの女性はたいした存在ではなく、例えば学生時代の電話の挿話に出てくる「悲しいほど平凡な名前」の女性や『羊をめぐる冒険』に出てくる「誰とでも寝ちゃう女の子」と同じような、名前のない女性、村上氏の小説の中ではありふれている存在となる。ありふれた女性を双子の姉妹に代え、クローズアップする理由は ただ一つ、ピンボールをめぐる時期と重なっているからだ。
ピンボールはしゃべらない。ピンボールとの再会の場面での会話は僕自身の心の会話、あるいは整理のようなものだ。ピンボールをめぐる物語はあくまで僕自身が任意で選び出した物語でしかない。そう考えた時、入口と出口があったのかは疑わしくなる。ピンボールとの会話の「無から生じたものがもとの場所に戻った、それだけのことさ」という言葉は、この物語の入口と出口を指しているように思える。しかしこの会話が偽りのものであることはすでにプロローグの「1969−1973」部分に記されている。「でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女が死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終わってはいなかったからだ」。
直子は死んだ瞬間に、彼女自身の出口を見つけたかもしれない。少なくとも彼女の生は入口と出口を備えている。しかし直子に関わった人間にとって、直子の存在は出口を用意していない。僕にとって直子の死は直子をめぐる物語の出口にはならない。直子が死んで四年後に僕は出口を求めて直子の住んでいた街へ犬を見に行く。しかしそこに出口はなかった。小説はそこから始まっている。なかった出口を捏造する、それが僕の物語の意図であり、形式的に入口と出口を際立たせる理由だ。僕は、直子の物語に出口を作るために、任意で双子とピンボールを持ち出して物語を形成し、入口と出口を作り出す。確かにピンボールとの会話を素直に読んで、直子あるいは過去を受け入れる心境に達したとすることもできる。しかしピンボールとの会話で直子の物語に出口を見つけたとは到底思えない。出口のない物語に強引に出口を作り出す。そうして僕の物語は幕を下ろす。
もちろん村上氏はそのことに自覚的だ。最後の章では次のように書かれる。「もちろんそれで「アーサー王と円卓の騎士」のように「大団円」がくるわけではない。それはずっと先のことだ」。
「先」が『風の歌』の78年の僕なのか、『羊』の最後の僕なのか、『ダンス・ダンス・ダンス』や『ノルウェイの森』なのか、あるいは今も続いているのか、はわからない。いずれにしても「大団円」のない僕の物語は、出口のない物語に出口を作るための作為的なものだったと言える。
以上僕とピンボールの物語を見てきたが、『ピンボール』が「鼠と呼ばれる男の話でもある」ことを忘れてはいけない。「七百キロも離れた街に住んでいた」鼠が何故僕と並列に物語を展開していくのか。それは同時代性ではなく、内容の関連性から見ていくべきだろう。
前述したように鼠にも入口と出口がある。女をめぐる物語は出会いと別れ、街を出て行く物語はまさに街を出て行く行為がそれに当たる。この物語が僕の物語と同様任意的なものかどうかだが、街を出て行くという行為は『風の歌』や『羊』を考慮すると、鼠の人生において決定的な決断であり、僕の任意性とはかけ離れている。女の物語も決して任意的とは考えられない。女には名前がないが、僕の物語に氾濫する女性のイメージとは違い、一人の女性としての具体的なイメージを持っている。『羊』で鼠が彼女を気に掛けていることを思い出すまでもなく、彼女が鼠にとって取替不可能な女性であることは明確だ。僕の物語でそんな女性を挙げるとすれば、直子と事務員の女の子(『羊』で離婚する妻)しかいない。僕の物語はそうした女性を避けて取替可能な双子の姉妹に焦点を定めて展開していくのに比べて、鼠の物語は絶対的な女性をめぐって展開される。言ってみれば僕と直子の物語が鼠と女の 物語として擬似的に語られているのだ。
だがその話に行く前に、もう一つ僕と鼠の物語の違いを考えておきたい。風景描写についてだ。鼠は常に景色を眺めている。女のイメージも風景だからこそ具体的なのかもしれない。鼠の章の風景描写は徹底していて、これが同じ小説か、とすら思わせるぐらいだ。
「悲しいほど平凡な名前」女性が大学を辞めて故郷へ帰るのを見送る挿話で、僕は「景色なんて気にしたこともなかったな」と言う。僕は景色を見ていないから、風景描写が入り込む余地がないのだ。それに対して女性は「あなたならきっとうまく生き残れるわ」と返す。女性は景色を気にしていたから東京を出て行くのであり、この女性に鼠を重ねることもできる。
僕の物語は風景ではなく、言葉で成り立っている。例えば冒頭の「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった」は僕が風景を見るのではなく、聞くことによって成立させていることを暗示している。何故風景を見ないのか。それは風景を見るということは現在を見ることだからだ。僕は現在、つまり73年という時代を見ていない。双子への徹底した無関心はその結果と言えよう。僕は73年を生きながら、常に過去、具体的には69・70年、直子とピンボール、を見つめている。そして過去を語る言葉によって風景が作り出されていく。それは現在を拒否した上で作り だされる任意的な風景だ。
鼠は常に現在を見ている。そして現在から逃げ出そうと必死になっている。街も風景であり、現在であるからこそ、鼠は街から出るという物語を展開するのだ。しかし鼠は過去で風景を作る僕と違い、過去については語らない。何故語らないかは置いておいて、過去を語らず、現在を見る鼠は現在と地続きの未来を否定して、街を去る。
僕は絶対的な過去から任意的な現在を選んで物語を形成するのに対して、鼠は絶対的な現在から任意的な未来を選んで物語を閉じる。こうして鼠の物語は入口と出口を手に入れる。鼠はまさに、直子という物語に直面している。それは鼠の物語が取替不可能な女性を相手にしているということだ。僕が直子の死によって出口を見つけられないのに対して、鼠は自ら女性と別れることによって出口を作る。その出口が街から出るという物語の出口と重なることにより、鼠の出口は新たな入口の意味も帯びる。鼠は「ここではないどこか」を夢見て物語を終わらせる。過去に囚われて現在を見ないロマン的な僕と現在に囚われつつも未来を見る鼠。この対比を考えるなら、鼠の物語は僕の物語を批判するものであり、鼠の物語にこそ「期待の地平」を見出すべきだ。
ただこの「期待の地平」が絶望的であることも述べておかなければならない。
『ピンボール』では入口があって出口がないものの代表例として鼠取りが挙げられる。それはどうしても登場人物の鼠を連想させてしまう。事実「鼠三部作」の最後で出口を見つけることができなかった鼠は鼠取りに捕まったか のように死んでしまう。
考えてみれば「鼠三部作」の中で『ピンボール』は中継の位置にあり、『風の歌』という入口、『羊』という出口の中間で宙吊りにされている。つまり『風の歌』を入口にした読者は『羊』を出口とし、『ピンボール』を入口とも出口ともしないのだ。『ピンボール』を入口や出口として読む唯一の方法は『ピンボール』を独立した小説として読むことだが、村上氏の書き方はその読み方を許さない。冒頭の直子の挿話は嫌でも『風の歌』の仏文科の女の子を連想させるし、鼠の出口はそのまま『羊』へ繋がっていく。実際の問題として『ピンボール』しか読んでない人は少ないだろう。何故なら『ピンボール』は「鼠三部作」という物語の一部分だからだ。また『羊』が『風の歌』の最後に書かれている78年以降の小説である一方、『ピンボール』は73年の小説であり、時間軸で見ると『風の歌』の中に含まれているとさえ言うことができる(『風の歌』の最後では仏文科の女の子の写真は紛失している)。『ピンボール』は存在自体が宙吊りにされていて、初めから入口と出口を持つことを禁じられているのだ。
しかし、だからこそ『ピンボール』は「鼠三部作」の中で一番「期待の地平」を露呈させていると言い換えることもできる。『風の歌』には入口と出口が備えられている。『ピンボール』で僕の物語に出口を与えない直子の存在も固有名を剥奪され、過去の風景の一つになっている。これは「遠くから見れば、大抵のものは綺麗に見える」という村上氏の遠近法に由来している。『風の歌』は78年の時点から書かれており、69年までには9年間の距離がある。『ピンボール』は73年の時点であり、そこには4年間の距離しかない。この4年間と9年間の差が直子の扱いのズレとなっている。くどいようだが『風の歌』は入口と出口を備えており、小説として完結している。だが「期待の地平」という点に関しては何もない。小説は完全に管理されていて、村上氏が言うように「まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノート」に過ぎない。『ピンボール』はそういった意味の管理が成立する過程の物語だ。直子という生の存在に出口を見つけ出せない僕は直子をピンボールに置き換えることによって無理やり出口を作り出す。こうした行為を繰り返して僕は『風の歌』の僕の立場へ向かう。管理ということを考えるなら、僕の物語も不完全ながらも管理されている上、管理から外れた瞬間はむしろ失望へ行進している印象があり、「期待の地平」はほとんどない。それに対して、鼠は女や街といった生の存在を見つめながら、出口を見つける。そこには管理はなく風景という現在があふれ、「期待の地平」が鮮やかに露呈している。『ピンボール』の鼠の物語が異様なまでに「期待の地平」を露呈させるのは、管理された僕の物語の中にあるからこそかもしれない。
また鼠の「期待の地平」が絶望的であると先に述べた。しかしそれはあくまで時系列で考えた場合の話だ。「ここではないどこか」を目指して「どこか」に着けば、「どこか」は「ここ」になる。そうしてまた「ここではないどこか」を目指すことになる。「ここではないどこか」を目指す試みの「期待の地平」とは「ここ」を出て「どこか」を目指す宙吊りの状態にあり、『ピンボール』で街を出る鼠の状態がまさにそれと重なる。『羊』の鼠はすでに「どこか」にたどり着いていて、そこに「期待の地平」はない。「期待の地平」は連続したものではなく、瞬間的なものと考えるなら、『ピンボール』はまさに「期待の地平」が最高潮に達した瞬間であり、決して絶望的なものではない。
今回はあまり内容に触れず、入口と出口、風景という形式論にこだわり過ぎたかもしれない。それは内容に触れると、小説にあふれる言葉のイメージに囚われることを恐れ(実際に村上氏の評論の多くは記号論などで語られている)、わざと回避して、形式を中心に論じたつもりだ。実際初めて読んでから5年程私は「入口と出口」の言葉のもつイメージに囚われて、常に意識していたような気がする。もちろん「入口と出口」にこだわったからこそ、今の私があるとも言える。ただ今読み返してみると、そのイメージに対応するだけの内容があったのかと考えると腑に落ちない。
今なら「入口と出口」のイメージが重要なのではなく、「出口」が「入口」と重なり、「期待の地平」を露呈させる瞬間、生の瞬間が大切だと言うことができる。
鼠は最後に街を出る。これは鼠にとって「出口」であると同時に「入口」でもある。出口と入口の間の宙吊り。この瞬間にこそ「期待の地平」が現れ、僕の自己完結の物語を乗り越えてしまう。この乗り越えこそを「期待の地平」と言ってしまっていいのではないだろうか?(2003/6/01)
参考文献
『総特集 村上春樹を読む』(『ユリイカ臨時増刊』)
三浦雅士『主体の変容』(中公文庫)
蓮實重彦『小説から遠く離れて』(河出文庫)
柄谷行人『終焉をめぐって』(講談社学術文庫)
produce by 熊本昭